花に潜って

三姉妹の話と、わたしの時間

次女、斜頭でヘルメット治療(1)これは自然に治るのか?

2020年に次女と三女が同時に生まれました。

二卵性の双子として。

さて、次女は、切迫早産で入院中の産前1ヶ月の間にこれでもかとつけたNSTでは「おや!心拍早いね!なんか急いでるの!?」と頻繁に言われ、胎動も圧倒的に多く(三女は心拍数もゆったりで胎動少なめ)、なんか怒ってるのかな、狭くるしいのかな…などと想像していた。

その次女。生後2ヶ月ほどたったとき、夫が「向き癖あるよな?」と言うではないか。

わたしは全く気付いておらず、1ヶ月検診で向き癖ありますかと保健師さんにたずねられたときも、「ないです!」と自信満々に答えてしまっていたくらい。しかし、生まれてからの写真をスマホで見返すと、見事にほぼすべての写真で左を向いている。これは…

そして同じ頃、頭の形のいびつさにも気が付く。左後頭部がないのだ。通常の丸い頭ならばあるはずの場所に、骨が、頭が、ない。左後頭部がごそっとかけているというか、へこんでいるというか、平坦なのである。

まあ、赤ちゃんはまだ骨が柔らかいのだし、向き癖を直せば治るだろう、とこの頃は軽く考え、タオルをまるめて頭~肩の下にいれたりしてみた。実際、ネット上にはそうした対応で頭の形のいびつさが治ったという投稿を多く見かけた。

が、生後3ヶ月、まったく治らない。治らないというか、これってホントに治るんか?(いや、治らんだろう)と直感的に反語で考えてしまうレベルにはいびつさが際立っていた。手で触ると「うっ…」と思うほど、左右が非対称だった。

後頭部だけならまだしも、顔面にもいびつさがあった。普段はまったく気にならないのだが、鏡の前に連れていって映した顔をみると、かなりの違和感がある。前面は、顔の右側が欠けているのだ。つまり、左後頭部、右前方部が圧迫されて無くなってしまったようなかたち。

ヘルメット治療があるとうっすらきいたことはあるが、なんか可哀想だし、保険外治療でお値段もなかなかするようだし、健康や発達に影響はないと※小児科でも言われたし…(※予防接種の際に相談)

と、ドーナツ枕とタオルで向き癖をちまちま矯正しながら、生後4ヶ月に。そしてどうなったかというと…

全く治りません!(どかーん)

むしろ、ひどくなっていっている。

市の4ヶ月児健診でも相談したが、保健師さん曰く「今が一番頭の形が気になるピークよ。そのうち治るし、髪で目立ちにくくなるし、気にしなくていいから」。

そうか…そうなのか? ベテランの保健師さんがそう言うならそうなのだろうか?

でもこのいびつさ、自然と治るとは直感的に考えにくいのだ。もしも、治らなかったら? あの保健師さんは、なにか保障してくれるわけではない。あの言葉は、責任を伴わないアドバイスにすぎないが、次女にとっては生涯付き合っていく唯一無二の身体なのだ。

もやもやしながら、時間が過ぎていく。赤ちゃんの頭は日々成長し、そのうちにやわらかな骨は硬くなり、形が決まってしまう。

後悔先に立たず、という言葉がよぎる。行動するなら、今しなければ。

生後5ヶ月になる直前、わたしの行動スイッチが入りました。

(つづく)

双子を妊娠×悪阻で入院(6)「読む」ことの再開

妊娠9w~10w。

つわりのピークとよくいわれる時期だが、5wから点滴加療しているおかげか、それまでよりは食べられるようになってきた。嘔吐のない日はなく、唾液量はたしかにピークだが。

この頃世間は、クリスマス。相部屋の向かいのベッドからは「今日の献立、チキンとプリンやって~」と喜びの声が。うらやましいけど、もし出してもらっても食べられない。

しかし!食べられそうなものを、神のお告げのごとく突然閃いたのです。それは…

でした。

って鯛のおかゆ?! そんなピンポイントな!ていうか鯛粥なんてこの30年の人生でたぶんいっぺんも食べたことないけど?なんで食べたことのないものを思いついた?

とつっこみどころ満載の閃き。でも、もうこれだ!それならいける! ということで実母にLINE。よろしくたのむ。実家に頼れる距離に住んでいたのは幸運の極み。

当時3歳の長女の日中の預け先としても、両家の実家にはかなり頼りました。もし両方の実家から遠くはなれて暮らしていたり、理由あって頼れない状況だったら、公的なあるいは民間の託児やベビーシッター等のサービスに、2ヶ月ほどお世話になっていたと思う。そのぶんの経費が浮いたことと、娘にとっては祖父母と長く過ごして、甘えたり叱られたりして、交流の幅が広がった良い体験になったこと、これはほんとうに感謝。ありがとう。まあそれは民間サービスであってもおなじメリットを享受していたかな。

 

この頃はコロナウイルスによる病院の面会制限など知る由もないころで、毎日夕方になると、長女とそのひ預かってくれていた祖父母の誰かがお見舞いにきてくれていました。そして長女がベッドの上に靴を脱いでよじのぼってきて、1時間ほどおしゃべりしたり絵を描いたりだきしめあったりなどして、会えない時間を埋めるような、母子の交流の時間をとっていました。

そして鯛のお粥も、タッパーにいれて母がもってきたのを、看護師さんにたのんでレンジであたためてきてもらい、おそるおそる食べ進める。おお…50mlくらい食べたぞ…

こうして毎日毎日、母がこしらえた鯛のお粥をちびちびと食べ進めはじめました。

そして、それならばと主治医の提案で、病院食もついにはじめてみることに。病院食にはいろんなレベルというか区分があって、わたしのは油分とカロリーを押さえたあっさりしてやわらかいものが出てくるタイプ。病院のおかゆが口にあわず食べられなかったので、はじめは主食抜きに。

はじめて病院食をだしてもらった朝、ほうれん草のおかか和えがあって、それを口にしたときの、広がるうまみは衝撃的。今も忘れない。三週間ほどのこととはいえ、極端にものを食べない日々のあとは、食べ物への感度が研ぎ澄まされていた。鈍感になるのではなく、敏感になることに、動物としての感覚がここにあると驚いた。

そうして葉野菜が食べられるようになり(しつこいようだが、お粥だろうが野菜だろうが食べられはしても毎日リバース)、ナスのおひたしも食べられた、豆とトマトのスープが飲めた、と、徐々にあっさりした野菜と穀類を食べられるようになっていき、

そうしていくと、精神的な部分でも、余裕が出てきた。本や漫画を読もうかな、動画でも見ようかな。あ、Wi-Fiないんだったわ。

てことで、夫に頼んで家の本棚から、漫画をどっさりもってきてもらい、読む、読む、読む、たまに吐く、読む。(ところでこのとき読んでたのは「神風怪盗ジャンヌ」「カードキャプターさくら」「ミントな僕ら」「パートナー」って年代がばれそうな少女漫画と、大人になってから出会って大好きな「宝石の国」「群青学舎」など)読んでいると気が紛れて吐き気を感じにくくなるようになってきたのもこの頃。ピークの始めは、気をまぎらわせる方法すら無いに等しかったので、その術を手にしてかなり精神的に回復。そして吐き戻すことも一日中一回だけになってきた。ありがたいありがたい。

そうこうしているうちに2019年の大晦日を迎え、お正月を迎えたのでした。こんなにも年末年始らしさを感じない冬は、記憶のない幼少期以来だと思う。 新しい年はいったいどうなるのか、考えるとグッタリしそうで、あまり深く考えることをあえてしないようにしていた。なるようになる。川の流れに浮いた一枚の葉っぱのような気持ちで。

双子を妊娠×悪阻で入院(5)経口での飲食再開

一日中点滴されているからといって、なにも食べなくていいわというわけではない。私はもともと食べることが大好きだし、口から食事、せめて水分をとれるようになって退院するのがこの時点での目的だ。

 

妊娠7w~8wの頃。

わずかでも吐き気がましなときを狙って、食べられそうなものを思いついた片っ端から家族に調達してきてもらい、こわごわ試すことにした。

このとき、これはいけるか?となったのは、

でした。梅干しとか炭酸ジュースとか飴とかフルーツとか、いろいろ聞きますが、それらも個人差というか、あらゆる悪阻にきくわけではないようで。私はどれもだめでした。食べる前からすでに、だめだとわかる感じ。

私は唾液悪阻がひどかったため、唾液を吸収するようなパサパサのものがヒットしたもよう。味にくせがなくカロリーもなく、リバースするときに喉にひっかからないようにとろりとひたもの…というので赤ちゃん用せんべい。食べている間は唾液つわりを忘れさせてくれるスグレモノ。イエーイ。いいもの見つけたぞと思った。

そして水分という観点からはゼリー飲料。が、これもファイブミニのゼリーに限る。他のはダメ。

どちらも食べたあとはもれなくリバースするけど、なんにも食べずにいて、不味い体液をドバドバ吐くよりかは、食べたものをもどす不快感のほうがまだがまし。という理屈でこつこつと口にしていました。改めて考えるとなんてかなしい食べ方だと思うけど、しかたがなかった。

胃液と胆汁はほんとうに不味い。しかも、酸性が強いので歯がやられるよと看護師さんから忠告があった。酸性…ということは、つまり歯が溶けてしまうということだ。吐いたら歯を磨くか、難しければゆすぐのは必ずやってね、とのこと。

歯磨きなんてもちろんできるわけがない。なにもつけていないブラシを口に突っ込んだだけで嘔吐のトリガーなので、おそろしくてできない。そのためこの時期はデンタルリンスで口をブクブクして歯磨きがわりにしていた。いや、代わりには全くならないと思うけど、なにもしないよりは歯に良い気がして、気休めといったところか。歯ブラシを口に入れられるようになったのは、入院して1ヶ月後くらいのことだった。

 

吐くものが体液から食べたものに代わったところで、胸焼けはひどいし、喉は度重なる逆流にダメージを受けたのか出血してるしで、胸~喉にかけて焼けるような痛みが続いていた。一体何重の苦しみをくれるつもりなのか、悪阻よ。

胸焼けを主治医に相談すると、冷やすとましになるはずと言われる。そこで保冷剤をかりることにした。凍った保冷剤を胸に抱き締めていると、たしかに焼けるような不快感がすこしだけましになった。季節は真冬なのだが。

ある日、保冷剤を交換にきた中年の看護師さんが言った。

「背中のね、胃の真裏のあたりのツボを押すと吐き気がましになる人がいるんよ。やってみたらどうかな」

とにかく不快要因がすこしでも減るなら、できそうなことならなんでもやりたいので、早速試すことにした。

100均にマッサージ用のゴムボールが売っていると家族から連絡があり、早速調達してもらう。ゴルフボール大の、やわらかめのピンポンボールみたいなもの。

それを胃の真裏と思われる背中におしあてて、そのまま傾けたベッドにもたれて、過ごす。眠るときもやってみた。(ちなみに、寝台を完全にフラットにしてしまうと吐きやすいため、15~30度程傾斜をつけた状態で眠っていた)そのまま朝まで寝たりすると、さすがに痛いけど。

それで劇的になにか改善したかときかれたら、否。だけど、気休め程度に心地よくなったきがして、わりとこれは続けてやりました。

まあなにもかも気休めですわ。吐き気止めの薬も。デンタルリンスも。気休めのカードを一枚ずつ手元にふやしながら、悪阻の苦しみを少しでも耐え忍びやすくしていく。それがこのときの、「最善を尽くす」ということ。

 

つわりつわりつわりでいっぱいいっぱいの、ここに加えて、まさかの双子・まさかの多胎という、もうひとつわたしを悩ませる要素があり、肉体的のみならず精神的にも追い込まれている時期でした。

車を買い換えなければいけないことや、育児グッズなども上の子のおさがりだけでは足りないこと、教育費のこと、生活費のことなどお金の面。となると、夫婦の働き方についても考えなおす必要がありました。

また、私も夫も、それぞれの両親も二人きょうだいで、三人きょうだいというものに馴染みがなく、想像がつかない不安。そもそも三人も育てる器が私にあるのか、私は三人もの子の親としてふさわしいだろうか、育てることができるのだろうか、という漠然とした怖さ。

という細々した、しかしまだうまくまとめられない不安の数々は、随時きてくれる看護師さんにぽつりぽつりと漏らしてアウトプットすることで、不安の濃度を薄めていました。話しても状況はかわらないけど、話すことで、自分のおかれている状況を俯瞰できる面積が増える感じがして。同じことをいろんな看護師さんに繰り返しぽつぽつ話していた気がします。

 

双子を妊娠×悪阻で入院(4)悪阻の入院生活やいかに

悪阻で入院している間、何をしているのか。

吐いてばっかりで…と書きたくなるが、24時間吐いているわけではもちろんない。というか嘔吐している時間そのものは、一日4回嘔吐した日でも、1時間に満たないでしょう。あとの23時間は何してたん?という話です。

21時頃眠って5時頃起きる8時間睡眠で、のこり15時間。

つわりのピークだった6w~9wくらいは、もともと大好きなはずの音楽やラジオを聴くのも気持ち悪い。テレビをみるのもだめ。文字を追うのも気持ち悪いから本もだめ。外の景色を見るのすら気持ち悪い。スマホWi-Fiがないからほぼ使いものにならず(3ギガの契約でした)。もう、ほんとう~~にやることがない。でも唾液だけは毎分ぺっと吐き続ける。これは、このときはもう呼吸のようにきってもきれない行為となりかわっていたので、書くのを忘れそうなくらい。

ただ、ベッドの背もたれの傾斜をあげて、もたれかかって、じーっとしているだけだった。相部屋なので、カーテンを閉めて。カーテンのドレープと、布団のチューリップ模様のカバーを日がな一日眺めている。吐き気がずっとずっとずっと、身体のすみからすみまでにまとわりついている。それを感じながらただ耐えている。負荷まみれの瞑想みたいだ。

朝は主治医がきて、どう?と1分くらい話す。検温、血圧測定。点滴の交換が適宜あり、お手洗いだけはどうにか根性で徒歩で行き(歩く、という行為が吐き気のトリガーになって、戻るとたいがい吐いていた)、身体を清潔に保つためのホットタオルをもらって体を拭く。下着だけはなんとか毎日替えたけど、パジャマなどを着替えるのは3日に1回くらい。シャワー室は使ってもいいのだけど、ピークの頃は吐き気のあまりシャワーにいくことができない。スキンヘッドでない限り、頭はタオルじゃふけないので、美容院みたいな洗髪コーナーがあり、そこで助手さんと呼ばれるおばさんに洗ってもらっていた。それこそ美容院のように上を向いて洗えたらいいのだけど、その状況で吐き気が到来したら、吐瀉物が喉に逆流して危険なので、下を向いて。唾を吐き続けながら洗髪してもらっていた。入院しているベッドから洗髪コーナーまでは車椅子で移動していた。その50メートルもないであろう距離が、歩けないのだ。

つわりでも、仕事を続けているひともいるし、おうちで家事を続けるひともいる。が、わたしのそれは、もはや、歩くことすら困難なのだった。

 

双子を妊娠×悪阻で入院(3)入院生活開始

かかりつけの産婦人科から夫の運転する車に乗り、市内の総合病院へ移動する。総合病院の駐車場は広く、屋外で、そこから救急受付への道のりのなんと遠いことか。さっきみたいに手をつく壁もないので、足を引きずるようにして、ずり、ずり、と亀の歩みでなんとか歩き、着いた受付のベンチに倒れこんで横になった。紹介状だとか保険証だとか、細かいことは夫に任せ、しばらくすると受付の女性がやってきた。 

「ご案内する病棟は三階ですが、エレベーターまで歩けます? その様子ではきびしいですね? 車椅子をもってきますね」

わたしは首だけ動かして同意した。ただ歩く、それさえも困難にさせる悪阻。

夫と長女は受付で入院説明などを聞くため残り、とにかくわたしだけは先に部屋へ案内されることになり、車椅子で入院する病棟の、部屋の、ベッドのすぐ横まで運んでもらった。四人部屋の窓際のベッドで、窓からは中庭が見える。

早速点滴ということになり、看護師さんが二人きて、血圧計測、検温、あれよあれよというまにソリューゲンという点滴がつながれた。そして突然のリバースにそなえて、ピンク色の、湾曲した深さのあるプラスチック容器にビニール袋をかけたものをわたされた。これで安心。お手洗いは部屋を出て廊下にあるし、たどり着くには、スリッパをはいてベッドからおりて点滴ポールをからからと引き連れ…って吐き気→嘔吐の間にそれをこなすのはどうしたって無理。

 

夫と長女がやってきて、着替えなどは翌日もってくると言う。このとき、2019年12月。まだほとんどの人は新型コロナウイルスについて知らなかった頃で、入院患者の面会はかなり自由だった。お母さんに会いにこようね、と夫は長女に言っていて、わたしも来てねと言った。そしてふたりは帰っていった。

長女を生んでから、いやむしろ生む前から、最大10時間くらいしか、わたしと長女は離れたことがなかった。それなのに、突然20時間以上毎日離れて過ごす! そのことにも驚きと戸惑いがあったせいで、長女たちが帰ったあとはベッドではらはら泣けてしまった。

 

入院初日、点滴されながらも黄色くて酸っぱい胃液をリバースする。唾液は絶え間なく出るので、そのピンク色のプラ容器に吐き続けた。唾液がたまるとこぼしたときに大変なので、様子を見に来た看護師さんにこまめにビニール袋をとりかえてもらった。

 

まさか入院することになるとは思わずに家を出てきたから、この日はジーパンにウールのタートルネックという格好。そのまま横になっていると、首にニットがちくちくして不快きわまりない。暖房きいてるんだし、脱いじゃおうかなと思ってはたと気がついた。点滴がつながっているから、脱げない!やれやれと諦めてこの日はそのまま眠った。

唾液つわりは、寝ようとしたっておかまいなしに唾液を吐かなければならないから、なかなか眠れない。唾液をぺっと吐き出して、そのつぎの「ぺっ」がくるより早く眠りの世界に行かなければならない。それでも救いだったのは、眠ってしまえば朝までは悪阻とおさらばできることだった。朝目覚めたら、その瞬間からはじまるけれど。

 

翌日。「悪阻で来たのかあ~、いま7週くらい? えっ、5週! まだそんななの!先が長いね…」と看護師さんに哀れみの目を向けられる。

この病院では悪阻の入院は毎朝、検温、血圧測定、お通じのチェックがある。そのほかにも数回様子を見にきてくださり、点滴の交換もかねて夜中もきてくれる。わたしの点滴は24時間連続で、1日につき500ml×4本で、二種類の液剤を交互に点滴する。片方の液剤は点滴痛というのがあって、わりと腕が痛い。

しかも脱水状態にあるため、針が血管に入りずらいらしく、なかなか一回ではうまく針がささらない。二回失敗すると選手交代と決まっているようで、初心者マークを名札につけた看護師さんが申し訳なさそうに「先輩よんできますね…」という。その先輩も失敗し、4回目にしてなんとか刺さる。

点滴を打ち続けていると、血管~周辺が張って硬くなる。そうすると良くないので、反対側の腕にチェンジ。それでも場所がなくなると、手の甲側から内側にチェンジ。とあれこれ両手首の周りの引っ越しを繰り返す点滴針。

点滴の内容は主に水分と栄養で、希望すれば吐き気止めもいれてもらえる。最初から混ぜてもらうのでもいいし、チューブに吐き気止めだけをつないで血管にダイレクトにいれてもいい。でもジャンジャンは入れられないらしく、1日1回まで。どちらにせよ、残念ながら、わたしには効き目がほぼなかった。が、いれなければもっともっともーっと気持ち悪いのかもと思って、とりあえずいれてもらっていた。

 

入院して最初の一週間、つまり6wのあいだはほとんどなにも口からはとらなかった。ポカリや緑茶をなめる程度にはトライしたが、飲むというほどの量ではない。

それでも1日最低1回は嘔吐した。黄色い胃液、そして、抹茶色の苦い液体。なんだ?胆汁? とにかくおそろしく苦い。これ以上苦いものがこの世にあるか?と思うくらい苦い。体液をもどしたあとの口腔内の不快さもひどい。水でゆすいでもゆすいでも味がとれないのだ。

嘔吐したらナースコールを押した。処理してもらうために。来てもらってもなおまだ吐き続けているときもあって、そんなときは背中をさすってくれる。

がんばってとはどの看護師さんも言わなかった。それはほんとうにありがたかった。

 

がんばる、という言葉は、わたしにとっては、「努力したり、工夫したりして、状況をよりよくするためにあれこれやってみること」というイメージがある。それ以外にもイメージはあるけど、そのひとつがこれ。

つわりの苦しみのなか、がんばれることなんてひとつもなかった。なにか悪いことをしたわけじゃない。なにかできることを怠ったわけでもない。むしろ、伝えたら、おめでとうといわれること。

ただ耐える。今を耐え、時間が過ぎ行くのをじっと待つ。苦しみながら、泣きながら、日々砂時計の砂が落ちていくのを、どうか早くと無理だとわかっている祈りとともに、待つしかなかった。

そこに、がんばるという言葉は不釣り合いにも程がある。

おめでたいことなんだから。自分で望んだことなんだから。

それは自分がいちばんよく知っている。

だけど、そういうポジティブな感覚をはるかに凌ぐ苦痛の嵐、あるいは暗黒、そこにぽつんとほっぽりだされたのは誰でもない、やはり私自身だ。がんばれだなんて、どうか、だれも、お願いだから、言わないで。そう思っていた。

そしてその想いは、一年以上経った今でも、良くないものだったとは思わない。自分が正常でいるために、ごく自然な感情だったと思う。

双子を妊娠×悪阻で入院(2)双胎判明、そして入院へ

5w1dで、第二子妊娠、と思って行った産婦人科の初回エコー。

先生がなにやら、ん?ん?と言っている。何か問題でもあるのか、健常な妊娠ではないのか、と思ってにわかドキドキし始めていると、先生が言った。

「ふたつあるね。双子かな」

予想外の言葉が耳に飛び込んできて、一瞬頭がポカーンと空白になった。

「ううん、どうみてもやっぱりふたつある。双子でまちがいないと思う。はい、じゃあ」

ウィーンとエコー写真を感熱紙に印刷する音とともに、エコーの時間は終了。

えっ。えっ。えっ…?  追い付かない頭のままでお腹を拭かれ服を戻して台を降りる。えっ?

デスクに戻った先生の前に座っていると、黒いエコー写真を渡されて、はいこれね、と言われる。これねっていわれても。ひきつった笑顔のまま自分の表情がかたまってしまっているのがわかる。

カルテに何やら書き込みながら(長女を産んだ産院なのでわたしのカルテがある)先生は、さくさくと説明した。

  • 妊婦健診は途中まではするが、多胎は扱える病院が限られているので、市内の総合病院を紹介する(ここは個人病院の産婦人科
  • 多胎は切迫早産になりがちなので産前の入院はよくある
  • 多胎は悪阻が重い場合がある、かも(断定ではない)

という主旨のことを簡潔にいわれ、この日の診察はおしまいに。

(まじか…まじか…まじなのか…)

と、思考回路が語彙を失う。何から、何を足がかりに考えはじめればいいのかが、さっぱりわからないと、そうなるんだわ。

 

この病院のそばにスーパーがあったので、とりあえず落ち着け自分と唱えつつ買い物をして帰ることに。

ここですでにスーパーの食料品売場の匂いが不快に感じた。うっ、まずい、もう悪阻の始まりなのかな。だとするとこの後色々食べられなくなるから、食べられそうなものを買っておかなければ!と考えて、悪阻のド定番(?)グレープルーツジュース、りんご、富美家の鍋焼うどんを買った。

 

帰宅後、もらったエコー写真を取り出してみる。

黒い背景に、白い点がふたつ並んでいる。素人がみても、なにかがふたつあるというのは一目瞭然の写真。どう見間違えてもひとつでないのはたしか。

ううむ。夢ではないらしい。

 

そして二日後、おいしくいただいたあとに鍋焼うどんをリバース。りんごもリバース、ジュースもリバース。お茶もリバース。※嘔吐と書くと生々しい上に今後何度となくかかなければならないことなので、片仮名で

洗面器をかたときも離せない。トイレで吐けば処理が簡単なのはわかっているのだが、あまりにも急に吐き気がくるので、トイレに駆け込むのが間に合わないのだ。長女の悪阻のときにも同じことになり、リバース専用として100均の洗面器を夫に買ってきてもらった。その洗面器、後々は掃除用として活躍(排泄物で汚れたこどもの服を洗ったりなど)していたものの、ふたたびリバース専用として返り咲く。いや、格下げ?

 

長女妊娠中のつわりは、吐きながらもなんとか緑茶(綾鷹限定で)とカットパイナップルだけは食べることができたので、SUNTORYとフィリピンのパイン農家さんと輸入に携わる方々には足を向けて眠れないと思うくらい、パイナップル、パイナップル、綾鷹、パイナップル、綾鷹…でどうにか生き延びていた。合間合間に激辛カップヌードルとか、レタスとか、ししゃもとか、食べれる!と思ったものを家族に頼んで調達してもらい、ほとんど吐くのだがそれでも果敢に食べていた。ほかのものは吐いても、綾鷹とパイナップルだけはなぜかもどさないので、嘔吐<摂取、だった。

がしかし、第二子そして第三子のこのときは、パイナップルも綾鷹もおーいお茶も生茶も、まったく歯がたたない。水分が摂取できない、がんばって摂取しても、飲んだのと同じかそれ以上の液体を30分以内にリバース。液体がだめなら固体から水分をとろうと試み、果物のひとかけら、ゼリーのひとさじなどを口にしてみるが、そのあと小さなコップ一杯分くらいの液体(胃液含む)をリバース。なんでやねん!と内心思う。なんでリンゴ一口食べただけやのにその5倍の体積の液体が出てくんのよ、 どうなってんのよ。

あきらかに、嘔吐>>摂取。打つ手がなく、あっというまに排尿が1日に1回になり、歩くのも、大袈裟ではなく「ヨタヨタ」という感じになり、こりゃだめだ。病院に相談しよう、漢方を処方してもらったり点滴を打ってもらえば楽になると聞いたことがある。

そんなわけで急遽夫に休みをとってもらい、長女もつれて四日前に行ったばかりの産院へ。駐車場から院内への短いはずの道のりが、おそろしく長く、手をつきながら壁づたいになんとか歩く。うう、気持ちが悪い。唾液もとまらないのでビニール袋を持って歩いている(そこへ適宜唾を吐くため)。身体にふきつけてくる冬の風そのものが気持ち悪い。産院の赤茶色の通路の色が気持ち悪い。というふうに、なにもかもが気持ち悪い。

 

尿検査と血液検査の後、通されて、先生に、固形物はもれなく吐くしお茶もジュースも吐いてしまってもうよれよれ、と伝える。よれよれすぎるあまり、敬語が使えない。そして出た検査結果は「ケトン+3」というもの。

ケトンについて、詳しくは検索してもらった方が早くて正確と思うのでここではあまり触れませんが、ざっくりいえば、飢餓状態を示すもの。なんだ、3か。ひどいひとは5とかって聞いたことあるし、長女の悪阻のときも3だったじゃないか。なら、まだ大丈夫なのかな。などと自分を励ましながらも、それ以上診察室の椅子に座っていることができず、先生のデスクのはじっこに突っ伏。あまりの気持ち悪さと、空腹なのか脱水なのか、身体に力が入らないせいで。

見かねた看護師さんが、奥のベッドに寝かせてくれた。そして先生が枕元までやってきて話してくれたのは、

  • 点滴に通うこともできるが、長女ちゃんのお世話の融通がきくなら入院したほうが良い
  • 紹介する予定だった総合病院へ、このあと電話をして入院できるよう手配する
  • ということはもう夫に話したから、手配がすむまでここで横になってていいからね

ということだった。はあ、はい、ぺっ、はあ、ふんふん。(唾液をはきながらでしか会話できない)

未就園児の長女をどうするのか、とよぎったが、それよりも入院できるという安心の方が正直大きかった。とにかく管理してもらえるのだ。なにか飲まなければ!生きるために!というプレッシャーから解放されると思ってほっとしたのだった。

こどもの頃に見たテレビ番組かなにかで、ヒトは1ヶ月食べなくても死なないが、水がなければ1週間以上もたない、というのを見たことがある。昔のメディア情報だから、その真偽のほどはわからない。が、どうしてもそれを思い出すと怖かった。絶対になにかしらの水分をとらねばと。

でも点滴を打ってもらえるなら、飲まなくても食べなくても生きられる。ああ、よかった。

 

夫が長女を抱いて、「入院やってな…」と、しょんぼり、心配、安心、不安がごちゃまぜになった顔をしてやってきたのをよく覚えている。そして「長女ちゃんのことは心配しないで、なんとかするからこっちにまかせて。病院でゆっくり休んでな」と言ってくれた。お言葉に甘えるしかない。あとはまかせたぜ…

果たして5w5dという妊娠初期にして、悪阻をもととする入院が決定した。多胎の悪阻は重い説に一票やで。

双子を妊娠×悪阻で入院(1)悪阻というのは

なにから書こうかな。

結論からいうと、2019年秋に双子の妊娠がわかり、すぐに重度の悪阻で2ヶ月近く入院し、初夏に切迫早産で1ヶ月入院し、そのまま予定帝王切開で2020年夏に無事に出産を終えてます。ちなみに4才違いの長女は経膣分娩で産まれたので、いわゆる普通分娩と帝王切開の両方をわたしは経験したことになります。そして双子のときは悪阻と切迫早産という二度の入院があり、一度の妊娠期間中にトータル3ヶ月間は入院していたことになります。

 

妊娠といえば悪阻。おそ、または、つわり。

軽い人もいれば重い人もあり、あの妊娠初期の不快症状を「つわり」でひとくくりにするのは、軽い擦り傷と捻挫と火傷と粉砕骨折をすべて「足のケガ」でまとめるくらい乱暴だよな、と思う。

よく見ないとわからない程の擦り傷のひとと、両足を骨折しているひとを比べて、「同じ『足のけが』なんだから、同じように走れるよね」とはだれもいわない。

同じように「つわり」と言っても、気にならない擦り傷レベルと、入院加療が必要な複雑骨折レベルと、あとはなんとか我慢できる捻挫レベルとか、骨折を松葉杖ついて気合いでがんばってるレベルとか、いろいろあると思うのだ。同じ痛みへの耐久力も、人それぞれでちがう。

つわりの違いは、視覚的に見えないことと、それを経験していない、しえないひとがいること。

だからこそ想像してほしいなあと思うし、わたしも自分の経験したことのない病気や、けがや、災害や、心のありようについて、想像力のはたらかせる世界はできうる限り広くと心がけている。

 

 

冬らしい気候になってきたその日、二人目の妊娠を確かめにかかりつけの産婦人科へ。

というのもすでにつわりらしい「いやな感じ」があった。普段全く食べないような、カップ麺のようなジャンクフードが食べたい。フライドポテトが食べたい。

長女妊娠時のつわりもわりとひどいほうで、6週ごろ突然職場で身動きがとれなくなり(あまりの吐き気に)、翌日からほぼ寝たきり状態になり、会社はやむをえず休職に。わたしの悪阻は、

・吐きづわり(飲食したものや、胃液、胆汁などの体液を嘔吐)

・匂いづわり(嗅覚が超敏感になり、匂いが嘔吐のトリガーになる)

・唾液づわり(唾液が異常なほど多量に分泌されてしまい、数分に一度は吐き出さないといけないくらいの唾液がひたすら出続ける)

・食べづわり(空腹になると気持ち悪くなるので、常になにかを食べていたくなる) 

の四つの複合。なかでも吐きづわりと唾液づわりが特に猛威をふるっていて、最強タッグ。その後ろに控えているのが匂いづわりと食べづわり。おやまあ豪華なことで。(つわりに豪華さ求めてない)

 

二回目の妊娠にあたり、つわりのきつさを忘れていたわけではないので、おそろしいというのはもちろんありました。でも、あれよりきついのはもうないだろう、となんとなく思っていたんだな。あると思ったら妊娠なんてしたくないから、動物としての本能が、楽観視させようとするんだろうか?だとしたら なかなかおそろしいね。

 

そして久しぶりにとってもらったお腹のエコー中、びっくりすることを告げられる。

そう、双子だと。

悪阻についてのあれやこれやで恨めしく(?)いっぱい書いてしまったので、その話はまた次回。

 

 

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はじめに

はじめましての方もそうじゃない方も、

こんにちは。

桃栗餅です。

(好きな食べ物を並べただけのユーザーネーム…)

 

ブログを学生時代にはまって書いていたのは、読書録としての書評ブログでした。楽しかったな。

mixi夢日記を物語風に書くのも好きでした。

人のブログを熱心に読むことはしないし、ウェブ上に書くのも最近はあまりしていなかったのですが、また始めることにしました。

というのも、妊娠~出産~育児を通して、知らないだれかのブログに救われたからです。

 

わたしは2020年、三人の女の子の親です。

 

楽な、平坦な、たいしたことない、

などと形容できる妊娠出産育児など、たぶんこの世のどこにも存在しないでしょう。

その道程で感じる孤独のなかで、「ああ、おなじ!」「わかる!」と共感できることや、未知のことに関しては、すでに経験済みの人のことばを知ることが、根本的にはしんどさの解決に結びつきこそしないものの、心のほうに効くなあと思いました。

と言いつつ、わたしは友達のなかでは結婚も子育ても早かったほうで、先輩がほとんどいませんでした。いとこもいないし、きょうだいでは自分が一番上だしで、親類に聞ける同世代もおらず。

 

そんななか、不安が発生すると、一時的とはいえ、かなりの検索魔になってしまいました。不安を埋めてくれる情報を探して検索、検索、検索に次ぐ検索。

知恵袋や質問箱サイトの、類似する話題から話題へ、次から次へと読み漁り、気づけば1時間、2時間と経っている。それでも心は満たされない。むしろ不安は増幅して、閲覧前よりさらにぐったり。

水を求めて砂漠をさまよいつづけるも、見つけたと思って近づくたびに幻で、蜃気楼のオアシスを渡り歩きつづけているような、むなしさと疲労が押し寄せる感じ。

 

だけど、不特定多数の人が、だれかのお悩みに対して、あれやこれやと親切心あるいは憂さ晴らしのようにのこしていった言葉の跡を見ることは、本当にしんどい渦中にいる自分には、傷に塩をぬりこむような、プラスの要素がほとんどない行為でした。(ちょびっとは「へえ~」と新たな意見を知ったりしたけども。)

欲しかった答えに似たコメントを見つけても、その真偽の不確かさや匿名性に、結局信じきることもできなくてもやもや。

 

悩みの渦中に、知恵袋系の読み漁りはだめだ…と、やがてわたしは気がついて、

これはやめなくてはだめだ、と思いました。

それでも、似たような経験をしたひとに、話が聞けたらいいのに。でもうまい具合にそんな人は身近にはいない。

 

そしてようやく行き着いた(と偉そうにいうほどのことでもないか)のが、ブログを読むことでした。

自分の今あるいは未来の環境に近いひとのことばを読むと、解決策は見えないままでも、ひととき安心を得ました。それは、つらい時間をやりすごすには、十分とは言えないまでも、ないよりはあるほうがいい薬でした。

知恵袋系となにが違うのか。

野次馬がいない場所で、じいっと、ひっそりとそのひとの話を聞いているような。

陳腐だけど「わたしひとりがこのしんどさを背負っているわけじゃない」「このしんどさを先に通過した仲間がいるのだ」と勝手に思うことができる。

もう読んだブログのことはほぼ忘れているんだけど、確かに救われたということだけは覚えていて。

 

前置きが長すぎたけど、だからわたしは、今度は読まれる側になれたらいいなと思って、ブログをはじめることにしました。

備忘録として書き残すことばが、もしかしたら、だれかの灯火になるかもしれないし、あるいはまったくそうはならないかもしれないね。

 

 

投稿予定のカテゴリは今のところ3つです。

わたしを不安に陥れた(?)三大不安の当時とその後。

 

1.悪阻が酷くて2ヶ月弱入院

2.しかも予期せぬ多胎妊娠(双子)

3.双子の一人が斜頭重度でヘルメット治療

 

たぶんどれも経験する人が多いとは言えない事項じゃなかろうかと思うので、まずはこれらを書いていくつもりです。